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作品のバックナンバー(比企氏ゆかりの地ーNO.10:金剛寺・先覚律師遺跡)

(金剛寺内の大日堂ー比企郡川島町中山) (先覚律師顕彰碑ー比企郡小川町大塚中城)
臘梅や苔のむしたる比企氏墓所 花すみれ先覚律師遺跡かな
比企能員の曾孫である比企員長(父親は正法寺で生まれた員茂で、後に佐渡で隠棲)が佐渡から戻り、金剛寺に館を構えました。現在でも掘割の遺跡が残されております。員長と二代将軍源頼家の室であった若狭局の娘(竹御前)とは従兄弟どうしであり、竹御前が比企郡を所有していたのでその縁により金剛寺に戻ったようです。金剛寺の墓碑は五輪塔や宝篋印塔などの素晴らしいものばかりですが、これらは員長の末裔で16世紀後半から17世紀末頃までに上杉家や結城家などの家臣として活躍された方達のもののようです。尚、金剛寺の開山が何時ごろなのかは不詳ですが、17世紀初頭に比企則員が中興しました。 先覚律師は比企能員の子息(甥との説もあり)ですが、茨城県で生れ、先覚律師顕彰碑のある地で万葉集が誰でも読めるように編纂作業をしたところとされております。万葉集の原文は全て漢字で、しかも草花等の漢字表示も現在と相当異なっているものが多いです。例えば、秋の七草の一つである「オミナエシ」は現在では「女郎花」ですが万葉集の原文では「姫押」・「美人部師」・「佳人部為」・・・などと書かれております。顕彰碑の周囲には「スミレ」・「アジサイ」・「ツユクサ」などの万葉の歌が展示されているのでこの花の時期に訪れるのも乙なものです。又、この地は中城城址なので土塁や掘割も残されております。

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